TB-「何があれば、変わりますか?」
「何があれば、変わりますか?」
これっていつも私が考えてることです。
生活とか環境とか出会った人とか経験とか、人ってどんなときもどんな風にでも変われる要素を持っているのに、多くの人はナゼか変化を「良し」としない。
確かに、結婚して世帯を持ち生活を作り上げいく課程で変化に富みすぎていては、落ち着くものも落ち着かないだろうとは思う
でも、毎日何事かを取捨選択して生きている私たちは、いつでも「右を左にかえる」チャンスを持っている。
それに「変化」とは自分で選ぶことが前提で迫られている。
選ぶのが怖いときもある。迷うときもある。
私自身もいつも迷ってる気がする。
でも、「変わる必要」を感じるときもある。
変化には責任が生じる。
だから多くの人は変化を好まないのだと思うけれど、自分が生きる限られた人生のなかで、いったいどれだけの経験ができるというのだろう。
結婚も経験。
出産も経験。
でも、その行為は自分が責任を持つことで選択されたはずであり、望んだはず。
ということは、考え方だって「経験」のひとつではないだろうか。
ものの見方、と言ってもいいのかもしれない。
「変われない人」の共通点は知らない。ことだと思う。
それはモラルだったり、考え方だったり、知識だったり、いろんな場面であることだと思うけど、往々にして自分の経験以外は信じない。
このTBは環境問題やエコについてのブログから引っ張ってきて書いてるけど、経験の変化は「知ること」でしか変わらないのではないかと私自身は思っています。
ディスカッション
コメント一覧
こんにちわ!さっそくトラックバックが入っていたので、飛んで来ました!ブログの方にも、コチラのリンク貼っておきます(^^
興味深く読ませてもらいました。確かに、変化のチャンスというものは、今この時間にでもあるわけです。就職、結婚といった大きな選択から、どっちのタマネギを買おうか、どっちの靴を履いて出掛けようかといった小さな選択まで。そして、選ぶときには経験と知識がなければ、なかなかベストチョイスできないかも知れませんね。popも、知ったこと、出会ったことで変われた(変わる必要を感じた)から、とてもよくわかります。
私自身、タイムリーな話題だったので勢いにまかせて書きました。
世の中いろんな人がいます。
変われる人、そうでない人。
でも「変わること」を強要するより「正しい認識」を共有していく方が大切ではないでしょうか。
情報処理能力を駆使して間違った認識をしないことがいちばんLOHAS的生活だと私は思っています。